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ダイアナ妃にこだわり続ける日米英。

 投稿者:ねこ  投稿日:2014年 4月29日(火)11時58分42秒
返信・引用
  ダイアナ妃にこだわり続ける日米英。

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0203/33/221.html

http://3rd.geocities.jp/jcon_tline/02/j/6/9/j690.html

スペースシャトルのお別れも、東京都知事選挙も、

「神の国」衆議院解散もダイアナ妃を記念したことは間違いないだろう。

サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』は、

ダイアナ妃がカミラ英皇太子夫人の「つなぎ」であったことを強く示唆する。

(仮説を含む)

( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/01/9/115.html )
 
 

11.第1次英蘭戦争 ―クロムウェルの野望―

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 3月29日(月)19時12分15秒
返信・引用
   腐敗の初期スチュアート朝が終わり、新たにようやく書き甲斐の有る共和制が始まったところまで書いてきた。さてさて、革命に成功したクロムウェル達だが、まず問題なのは国内をまとめること。ではどうやってまとめるか?方法は数々あるが、その中から、彼は国外に敵を作って国民の思考を方向付けると言う方針を採用することにした。と言うのも、このころのイングランドには格好の“敵”がいたからである。将来英国の強い同盟国となるネーデルラント―オランダである。 格好の敵 と言ったが、なぜかというと、当時の英国では反蘭感情が極限まで高まっていたからである。理由はオランダの忘恩。かつてオランダがまだスペイン領だった頃のオランダは困窮しており、イングランドの経済的支援でかろうじて食いつないでいた。だが、初期スチュアート時代にイングランドの海洋力が落ちると、突然、オランダ東インド会社を始めとするオランダ商人達は英国に牙をむける。モルッカ諸島では英国商人を虐殺し(俗に言うアンボイナ事件)、漁場を荒らし、イギリス海峡の通峡儀礼(チャンネル・サリュート。英国王権海域にて敬意を表す)  を無視した。
 1651年9月29日、ついにクロムウェル航海条例を発布する。航海条例とはイングランドに輸入出来る船をイングランド船と輸出国船のみにするという物だ。当時オランダはヨーロッパの海運の実に80%を独占していたがその大半は東洋の品を各国へ運ぶ形をとっていた。つまり、オランダの商法が英国に対して禁止される事になる。さすがにオランダもこれには対処しなければならない。
 1652年5月12日、プリマス付近で起きた小競り合いでこの歴史上まれな「領土侵略の意図のない、ひたすらに海上覇権を賭けた戦争」が幕を上げる。

 海洋貿易国同士の―方や落ちぶれた島国、方やヨーロッパ随一の繁栄を極める国の―
権威と繁栄を賭けた闘いが、ここに始まったのである。
 

10.共和政時代と海軍 ―革命期の海軍―

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)15時58分49秒
返信・引用
 


 ピューリタン革命が始まると、チャールズⅠ率いる王党派とクロムウェル率いる議会派とで海軍の取り合いが始まった。迅速な補給や部隊輸送には海上手段が欠かせないからだ。双方とも艦隊への命令書を送ったが僅差で議会派の命令が早く届き海軍は議会はとともに戦う事となる。
 結果緒戦で議会派は勝利を重ね、チャールズは処刑。王党派軍最高司令官ルパート王子は残軍を率いオランダへ脱出する。
 無論議会派は艦隊に追跡を命じるが、ルパート王子はなんと地中海から西インド諸島まで逃走を繰り返す。
結局1654年にフランスで議会派艦隊に追いつかれるが、彼はオランダに亡命。しかもその後、卓越した軍才を買われ、最後には海軍卿にまで上り詰める事となる。

 さて、共和政府が海軍の管理・改革に乗り出すと、かつての腐敗からの立ち直りが始まる。
 まず規模の拡充である。王が管理している時は議会からの予算を貰わなければ運用も難しかったが、共和政下では管理するのは予算決定権を持つ議会である。従って幾らでも拡充が出来たのである。結果、10年で約200隻も艦隊は拡充された。
 次にアドミラルティの合議化それまでのロード・ハイ・アドミラルの独断制より、合理的で腐敗も少ないと気付いたからだ。事実そうなった。
 また、海洋小説を読んでいる方にはおなじみの“拿捕賞金”の制度化もこの時期から始まるなど、乗組員の待遇改善も進められた。

 だが金だけで解決できる問題が全てではなかった。人材である。
特に堤督には“Habit of comand  (生来人の上に立つ素質)が求められる為、叩き上げの人材では駄目なのだ。
 そこで苦肉の策ではあるが陸軍大佐のロバート・ブレイクリチャード・ディーンエドワード・ポッファムらに“ジェネラル・アット・シー”という称号を与え、艦隊を指揮させた。彼らはその後目覚しい活躍をするが、あくまで階級は陸軍大佐である。

 

9.三十年戦争緒戦 ―カディス遠征作戦及びラ・ロッシェル解放作戦―

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)15時52分33秒
返信・引用
 


カディス遠征作戦
 さて、目的地を決めた艦隊は一路カディスへ向かう。が、ここで指揮官らは初めて艦隊の弾薬や食料を満足に積んでいないことに気がついた。
 仕方なくそのまま(!)進み、艦隊はカディスに到着するが、ここでまた問題に直面する。
海上から市街を砲撃できない事に気がついたのだ。仕方ないので部隊を揚陸するが、守備隊に返り討ちにされ、損害は増えるばかりであった。
 そうしているうちに艦隊内に疫病が蔓延し、荒天に遭い、ボロボロになりながら何の戦果もなく艦隊は帰港した。批難が殺到したが、全てバッキンガム&チャールズコンビが握りつぶし、議会も解散してしまった。

第1回ラ・ロッシェル解放作戦
 1627年、チャールズは船舶徴用のため、フランス船の抑留を命じ、これによりフランスとも交戦状態に入る。
そしてついに(アレだけ戦っていたにも拘らず)フランスとスペインは対英同盟まで結び始める。
 そこでチャールズ「フランスで弾圧されているユグノーの解放」という名目の元、フランスのラ・ロッシェル侵攻を計画。 総司令官となったバッキンガム公はその前哨基地として、レー島制圧を決める。

・・・・・・すでにこの点から失敗していた。レー島には2000の守備隊がいた。ユグノーの連絡将校は無防備のオレロン島を進言したがバッキンガム公はなぜか却下。結果、硬直した篭城戦にもつれ込んでしまう。
 更に、あれだけの大艦隊が警戒していたにも拘らず、敵の補給・増援を許してしまい惨敗する。

第2回ラ・ロッシェル解放作戦
 王室艦艇12隻と商船52隻を集めたバッキンガム&チャールズは、再びラ・ロッシェルに艦隊を差し向ける。
が陸からの砲撃に遭い、指揮官は作戦を断念。帰港するが、チャールズに激怒され、再びラ・ロッシェルへ向かうよう命令される。
 だがこのときフランスは新教を容認し始めていたので、実はすでに戦いの根拠はなくなっていた。しかも、寵臣バッキンガム公が前回の遠征で悲惨な目にあったレフテナントに暗殺される。
 しかし、なぜかチャールズは作戦をあきらめない。艦隊は現地まで赴いたが、結局ユグノーの降伏で、完全に戦う理由がなくなり、帰港する。


そしてついにピューリタン革命が起き、国王チャールズⅠは処刑され・・・・堕落のスチュアート朝は終わりを告げる。

 

8.更なる悲劇 ―チャールズⅠ―

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)15時46分58秒
返信・引用
  さて・・・いやな時代だが、まだ書かなくてはなるまい・・・

前回の記事のように、ジェイムズの治世に英国の権威は低落の一途をたどる。
彼の治世で、かの有名なアンボイナ事件が起きたときも、国民は揃って激怒したが、国王は抗議すらしなかった。そんな国王への失望は自然と次の国王への期待へと変わっていった。
 そして彼の死後、その期待を一身に受けて即位したのが、海軍大好き人間チャールズⅠである。
 チャールズⅠは勇気ある紳士であったし、後に刎頚の場で見せた潔い態度は賞賛された。だが彼の致命的な欠点は生真面目すぎて万事優柔不断であったことである。

 だが、そんな彼も奸臣がいなければもっといい治世を築けたかもしれない。奸臣とはバッキンガム公ジョージ・ヴィラーズである。元々コメディ作家(!)である彼はもちろん政治手腕はゼロに等しい。そんな彼がなぜ公爵か・・・それは彼もまたジェイムズⅠの置き土産だからである。彼はジェイムズⅠの寵愛を一身に受け、そしてなぜかチャールズⅠの寵愛も一身に受け、恐ろしい勢いで国を傾けていく。

 悪い事は重なるものである。彼が即位した時、ヨーロッパは三十年戦争の真っ最中であった。
三十年戦争は非常に複雑な戦争なので、詳しい説明は出来ない。が、大雑把な流れだけ説明する。


①事は神聖ローマ帝国(現在のドイツ)内のいざこざで始まる。
プファルツを治めるプファルツ選帝侯フリードリッヒⅤを筆頭とするプロテスタント諸侯連合(ユニオン)と
神聖ローマ皇帝フェルディナントⅡを筆頭とするカトリック諸侯連盟(リガ)との対立が深まり戦争に。
プラハでカトリック連盟軍が勝利し、フリードリッヒ選帝侯はオランダへ亡命する。
②スペインが絡んでくる。
当時のスペイン王フェリペⅢはドイツ・ハプスブルグ家の血を引いているから当然神聖ローマ皇帝を応援する。
④デンマーク・スウェーデン参戦。
プロテスタントの両国は、ドイツ北部のプロテスタント教徒支援を口実に参戦する。
⑤ついにフランス参戦。
同盟国スウェーデンが参戦すると、フランスは宰相リシュリューの指示の元で、スペインに宣戦布告。
ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)対ブルボン家(フランス)の構図が出来上がる。
⑥はっきりした決着もないまま1548.10.28、ウェストファリア条約によって終結。
発端となったハプスブルク家に責任が押し付けられ、大きく弱体化し、プファルツ選帝侯は地位と領土を回復する。



ではチャールズⅠはなぜこの戦争に参加したのか?一見英国には他山の石のような戦争である。
理由は三点ある。一つは彼の妹がプファルツ選帝侯に嫁いでいた事
もう一つはデンマークの参戦でデンマーク出身の母・空っぽ頭のアンを母とするチャールズに新たな因縁が出来た事。
そしてイギリス海峡の利権問題が絡んできた事
 古来より、イングランドはイギリス海峡の主権を主張してきた。が、今回の戦争の参戦国:オランダ・スペイン・フランス・スウェーデン・・・などの地図上の位置から分かるとおり、イギリス海峡は三十年戦争の海の主戦場と化していた。これには黙っていられないわけである。

 さて、勢い勇んで出された命令書の文はこうである。

「本作戦の意図するところは、我親愛なる義弟及び妹―パラティネト選帝侯(=プファルツ選帝侯)及び同妃―を保護し、その失地を奪回するにあり。我親愛なる義弟及び妹がスペイン王から脅迫と圧制を受けつつあるのは明白にして、我がスペインに遠征部隊を差し向ける所以である。・・・云々」

・突っ込むべき点その1     なぜスペインなのか?
 プファルツ選帝侯を救うのなら神聖ローマ帝国領に攻め込むのが通り。

―A.これはバッキンガム公の猿知恵です
      チャールズはフランス王女と婚約したばかりでフランスはスペインと戦っていたから。
未来の父に恩を売っておきたかったから。

・突っ込むべき点その2     具体的にどこを攻めるの?
 
遠征先はスペインとしか書かれていない。

―A.出航してから決めました
 洋上で作戦会議を開きようやくカディスに決めました。

 こんな有様である・・・

しかも指揮官3人は全員実戦経験0の陸軍人。


早くも結果の見えそうなこの作戦の結果は如何に・・・

 

7.英国海軍の崩壊と没落 ―ジェームズⅠ―

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)15時39分26秒
返信・引用 編集済
   3代のテューダー朝君主の元そのシーパワーを飛躍的に高めたイングランドだが、エリザベスⅠが死ぬと海軍には暗黒の時代が待っていた。
 1603年、彼女が没するとスコットランド王ジェイムズⅥがイングランド王ジェイムズⅠとして王位を継承しスチュアート朝が始まる。が、スコットランド生まれのジェイムズには3つの大きな問題があり、これが海軍を蝕んでいくのである。

①王権神授説の信奉者であった事。
 つまり「国家君主は神の代理人であり、その権限は法律に左右されない至上のものである」
とする考え方。ところがイングランドでは王権といえども習慣法(コモン・ロー)に基づく法秩序に従わねばならず「議会の権利、すなわち国民の一般権利」を侵すことは出来なかった。この王と議会の対立が海軍に大きな影響を及ぼす事になる。
②財政能力がゼロであった事。
 チューダー朝の君主達は優れた財政能力を発揮し、特にエリザベスなどは合資会社で儲けながらも宮廷費を30万ポンドに抑えていたが、ジェイムズは宮廷費を40.4万ポンドにまで増額した。さらに彼には「Empty Headed Ann (=空っぽ頭のアン)」とまであだ名された王妃がおり、彼女の浪費癖は桁外れであった。彼の借金はロンドンに来たときですでに40万ポンドあり、僅か5年でさらに150万ポンドにまで膨れ上がった。王室は毎年7万ポンドもの赤字を出した。
③愚かなる“平和主義者”であった事。※これは決して平和主義自体を馬鹿にしているわけではない。
 彼にとっては私掠行為も戦争も悪魔の所業も同然であった。即位してすぐに自国の私掠活動を禁止し、スペインに和睦を申し入れた。イングランドの私掠活動に悩まされていたスペインにとってはジェイムズⅠは文字通り“救世主”であった。しかもスペインのつけたさまざまな要求にも「平和のためなら」と応じ、かつてイングランドが国民の血と汗でもって手にいれた通商権を無条件で手放した。

 エリザベスⅠの黄金時代から一転し、イングランドは急激に傾いていった。
私掠活動を禁じられたために、外国勢力からの攻撃に対抗できず、イングランド海運業界は壊滅的打撃を受けた。
1612年には30万ポンドの黒字だった貿易収入は10年で30万ポンドの赤字に転落する。
 もちろん“平和主義者”の国王は海軍になど理解を示さず、エリザベス時代には年額5.5万ポンドあった王室海軍関係費はジェイムズⅠ時代には3.4万ポンドにまで減らされた。

 約40隻の寒帯の大部分はブイに繋がれたまま朽ち、有能な水兵士官は次々と海軍を去った。
 1616年ごろ、もはや英国海軍は存在しないに等しかった。
 

コラム1 シュバルツの回想録―1582年の仕官名簿―

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)15時34分37秒
返信・引用
   ―あれはまだ彼と出会って間もない頃だと思う。彼―ギニアス・ストーナー―は私の船の副官としてアドミラルティから送られてきた。元々は商船の船長をやっていたらしいのだが、スペインに船をやられ、海軍に仕官したらしい。船乗りとしては優秀だが海軍に関しては右も左も分からないので叩き込んで欲しいと言うのが上からの話だった。
 ある日彼に仕官給与をチェックさせていたときの事だ。

G:航海長(マスター)、航海士(マスターズ・メイト)、掌帆長(ボースン)、掌帆員長助手(ボースンズ・メイト)、信号員長(コーターマスターズ・メイト)、船具倉庫長(ヨーマン・オブ・ザ・ジア)、艦長艇員長(コクスン)、艦長艇員長助手(コクスンズ・メイト)、補給員長(バーサー)、調理員長(コック)……給士員長(スチュワード)、給士員長助手(スチュワーズ・メイト)、掌砲員長(マスター・ガナー)、掌砲員長助手(ガナーズ・メイト)、医務員長(サージョン)、医務員長助手(サージョンズ・メイト)…ラッパ手(トランペッター)、鼓手(ドラマー)…清掃員長(スワッパー)…清掃員長助手(ライアー)……
 船長…これ本当に全員仕官ですか?航海長とかそこら辺はまだ分かるんですが…給士や清掃員まで仕官ですかい?
S:そうだ。本来 乗組士官とは艦内で特定の職務を受けている者の事だから、そうなるね。
G:そうですか…しかし最後のこの“ライアー”っていうのは何なんですか?他のみたいに“スワッパーズ・メイト”とかになら無いんですか?
S:それは多分月曜の朝になれば分かると思うが…

            月曜の朝
 いつものように私は船尾甲板(コーターデッキ)に立ち、彼も隣に立っていた。
突然、メインマストの上から叫び声が聞こえた
「ライヤー(嘘つき)!!ライヤー!!ライヤー!!」
 横目で見るとギニアスはすっかり驚いた様子である。
S:理由は分かったかい、Mr.ストーナー?
G:はい…でもなんであんな事を?
S:艦内の毒を洋上に放出すると言うのが理由らしいがね。月曜の朝毎にあんな事言われては正直あまりいい気はしないね。
 

6.アルマダ海戦 ―スペインとの戦い②―

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)15時30分18秒
返信・引用 編集済
  「まだ時間はたっぷりあるさ。奴等をやっつけるのはゲームを終えてからにしよう」
Sir.フランシス・ドレーク アルマダ発見の報を受けて―



 お待たせしました^^;今度こそアルマダです。

 スペインは当時スペイン領のリスボンに艦隊を集結させる。これを受けて、エリザベスⅠは国中に艦船の動員を命じる。もはや国民の意思は一致団結しており、これは“配当の無い合資会社”のようであった。費用なども、王室、シティ、シンク・ポーツ(船の貸し出し義務を負う代わりに独自の特権を貰った豪族・商人)、有志で賄われた。この結果できたイングランド海軍の戦力は以下に記すとおりである。

最高指揮官
および主力艦隊アドミラル  :ロード・アドミラルのチャールズ・ハワード
主力艦隊ヴァイス・アドミラル
および作戦立案         :フランシス・ドレーク
主力艦隊リア・アドミラル   :ジョン・ホーキンス
海峡艦隊指揮官       :ヘンリー・セイモアー
義勇志願戦隊指揮官     :カンバーランド伯爵ジョージ・クリフォード

王室艦艇     :34隻(組織の腐敗などでヘンリーⅧ時代より大分減った)
会社・個人提供艦艇:163隻
総船舶数     :197隻

作戦:スペイン軍の上陸阻止

 一方のスペインは大戦力であったが決して磐石ではなかった。
フェリペⅡが艦隊司令官に任命したのはメディナ・シドニア公爵ファン・アロンソ・ペレス・グスマン(・・・長い)である。これが最悪な男である。スペイン最古にして最大の資産を誇る公爵家の御曹司の彼は突然の指名に驚き「洋上に出たら船酔いする」と言って断った。だが国王は聞き入れない。一説だと国王と公爵夫人が不倫関係だったからとも言う。(果たしてフェリペ君の天秤では夫人とアルマダ、どっちが重かったのか…歴史の謎である^^;)

最高指揮官 :メディナ・シドニア公爵ファン・アロンソ・ペレス・グスマン(以下グスマン)
副司令官  :フアン・マルティネス・レカルデ
ガレオン:65隻
補給船 :54隻
ガレー :8隻
総船舶数:127隻

作戦:スペイン領ネーデルラントのパルマ公軍6000の輸送・上陸
   及びテムズ河口海域の制海権確保

1588.5/20 スペイン無敵艦隊(インヴィンシブル・アルマダ 以下アルマダ)がリスボンを出航。
      空前の大艦隊で、出航に3日を要したと言う。
      大艦隊を見て気を取り直したグスマンの国王にあてた書簡。

「総員の練度も士気も極めて高く、必ずや陛下のご期待に添う所存です。」

5/9 アルマダが荒天に見舞われ何隻かが行方不明に。グスマンの旗艦は
   クルナ港に逃げ込む。クルナからグスマンが国王に宛てた2通目の書簡。

「艦隊の練度も士気も稚拙で、補給の劣悪さは話になりません。この作戦は中止すべきです。」

   話にならないのは果たして誰なのか・・・

7/6 一方の英国艦隊司令官ハワードはプリマス港で待機していた。が、彼は弾薬・食料の不足に悩んでいた。
   そこで先制攻撃を計画し、ドレークを向かわせる。だが強風に煽られ引き返す。

7/18 早朝、リザード岬沖にて英国哨戒船の一隻がアルマダを視認。
   このときドレークは港近くの高台でボーリングをしていた。そして上記の名言を言ったという。

7/20 英国艦隊プリマスを出航。プリマスの海戦が始まる。
   アルマダは英国艦隊を振り切るように東に進路をとり、ドレークが追撃を開始する。
   艦の運動性能、砲術、乗組員のシーマンシップいづれもイングランドが勝っていたが
   その後ポートランドの海戦(7/21)、ワイト島の海戦(7/22)を経ても
   追撃戦はなかなか決着が付かず、26日には両艦隊ともカレー沖に投錨する。

7/27 グレーヴラインの海戦。ドレークが火船(燃え盛る小艦艇を敵艦に突っ込ませる。
   その後2世紀半に渡って使われるほど、当時としては有効な戦法)を使用する。

   4回に渡る海戦でアルマダの制海権確保は見込みが無く、
   パルマ軍輸送にいたっては夢のまた夢である。グスマンは残存艦隊を率いて北上、
   8/1に国王に作戦放棄の報告を送る。ハワードの主力艦隊がこれを追跡するが、
   エディンバラ沖まで追跡するが、敵に任務遂行の意思無しと見て引き返す。
   ここに「アルマダ海戦」は終結する。

 だがアルマダとグスマンにはまだ1ヶ月にも及ぶ凄惨な試練が待っていた。荒天、飢餓、疫病・・・ 9/1 グスマンの乗った<セント・マーチン>がサンタンデル港に帰還する。乗組員は半減し、生存者も全員病にかかっていた。その後次々と帰還するが、どれも五十歩百歩の状態であった。

 ある記録によればアルマダの損失はガレオン26隻を含む63隻にも上ったと言う。だが誤解してはいけないのは、戦闘で沈んだのは4隻に過ぎないと言う事である。つまりアルマダはグスマンの言うところの「練度も士気も稚拙」な(もちろんグスマンを含めた)乗組員の為に自滅したに等しいのだ。それに一致団結した英国海軍と自然の猛威(面白い事にこの事から英国にもWind of God =神風 と言う言葉がある!)が止めを刺した。これが歴史に名高いアルマダ海戦の結果である。
 

5.スペインとの対立 ―スペインとの戦い①―

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)15時23分4秒
返信・引用 編集済
   いよいよイングランド史上最も有名な海戦の一つ、アルマダ海戦だ。
だがその前にイングランドとスペインの対立の経緯を見てみよう。イギリス海軍大学のルイス教授によると、この対立は3段階に分けられると言う。
 ① 1558~1569
 まだメアリⅠ時代を引き続いて、比較的友好的な状態。だがこの頃、ジョン・ホーキンズをはじめとする英国奴隷商人達がスペインの西インド諸島に進出。英国商人の安価な奴隷により、貿易摩擦が起きる。
 ② 1569~1585
 冷戦状態。
ここでついにフランシス・ドレークが登場する。ほかにもマーティン・フロビッシャーやリチャード・グレンヴィルらの私掠船長達が世界の海を股にかけ“市場開拓”をするのである。つまりは略奪行為である。彼らは手当たり次第に新大陸の富を満載したスペイン財宝船を襲い「エリザベスの海の猟犬(エリザベタン・シー・ドッグズ)」として恐れられた。さらにドレークは1577~1580年にかけてガレオン級戦艦<ゴールデン・ハインド号>に乗船し、人類史上二番目の世界周航(もちろんスペイン船を襲いながら・・・)を成し遂げるなど多くの成果をあげた。

 少し私掠活動について説明しておく。私掠活動は海賊行為とは全くの 別物である。以下に内容を示す。
私掠活動:私掠船長は国からレター・オブ・マルク=特許状を貰っており、その行為は国家公認の“経済活動”
     とみなされる。襲撃するのは交戦相手国に限られ、いうなれば
     「個人的に戦争をしている」者ということだ。従って例え敵国に捕まって
     も戦時捕虜として扱われる。
海賊行為:平時でも相手を選ばず攻撃するため、海洋秩序を乱すも万国共通の敵
     とされる。なので捕まれば直ちに絞首刑。
 確かに内容としてはどちらも個人的略奪行為であるが、混同してはいけない。

 ③1586~
 戦争状態。以下は年表方式で・・・
1585年 ドレークエリザベスの援助(大型艦4隻、小型船2隻、多額の資金)のもと、
    王室艦艇<ボナヴェンチャー>を旗艦にプリマス港を出航(21隻の船と8隻の小型船)。
    翌年カリブ海へ進出し、スペイン植民地を片っ端から荒らしまわった。
    これが有名な西インド諸島襲撃である。
1587年 カトリック教徒であるスコットランド女王メアリーが処刑され、反カトリックが
    一層鮮明になったイングランドに対し、スペイン王フェリペⅡは侵攻作戦を開始する。
    そこにドレーク「スペイン国王の髯焦がし」を行い、事態は決定的となる。
    なぜ「髯焦がし」と言われるか?それはこれまで海外植民地を狙っていたドレーク
    ついにスペイン本土を狙ったからである。
    4月19日ドレークは20隻を率いてカディス港を襲撃する。スペインの被害は甚大で、
    船30隻が拿捕され、5隻を焼き払われた。
1588年 そしてついにアルマダへ・・・
 

4.海洋政策の名君 ―エリザベスⅠ―

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)15時17分48秒
返信・引用 編集済
   皆さんの中でエリザベスⅠから連想されるものはなんだろうか?・・・ドレーク、アルマダ、はたまたシェイクスピア・・・
彼女が行った業績は数多くあり、中でも海事関連は私掠船とアルマダ以外にも山のようにある。

 まず貿易。遠洋貿易はヘンリーⅦ以来すっかり定着し、この頃になると貴族とジェントリー(英国における下級地主層)の出資で合資会社(Joint stock company)が設立されるようになる。この合資会社、現在言う“会社”とは大分離れた存在だ。この合資会社の仕組みは
①海洋貿易で一儲けを狙う人達がある航路に目標をつけ、資金・船を持ち寄る。
②交易する。
③交易が終わると儲けを分配し解散する。
 そう。交易が終わると解散してしまうのだ!だがいくつかの会社はだんだん恒常化してくる。何回も同じ投資家達が集まるからである。

 ところでエリザベスⅠはこの合資会社に出資を始める。そしてちゃっかりと400%もの配当金を手に入れていた!そして1600年12月31日、彼女がある恒常化した会社に特許状(アジア貿易の独占を許可したもの)を与える。ここに彼の有名な東インド会社(The Governor and Company of Merchants of London trading into the East Indies・・・長っ!)が設立されたのである。


注:インドとはアジア全域の事である
 

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